日々是考察、本日のテーマは野中郁次郎。一橋大学名誉教授で、1995 年に竹内弘高との共著 The Knowledge-Creating Company(邦題『知識創造企業』)を発表し、経営学におけるナレッジ・マネジメントの礎を築いた人物です。
暗黙知と形式知
野中理論の出発点は、哲学者マイケル・ポランニーの言葉「われわれは語れる以上のことを知っている(We can know more than we can tell)」です。自転車の乗り方を言語化できないように、人間の知識には文書に落とせない部分がある。これを暗黙知と呼びます。一方、マニュアルや数式のように言語化・記号化された知識を形式知と呼びます。
重要なのは、暗黙知は「個人の中に眠っている」という点です。組織が新しい知識を生み出すには、この暗黙知をどう扱うかが問われます。
SECI モデル——4 つの変換が螺旋を描く
野中・竹内が提示したのが、知識変換の 4 段階を示す SECI モデルです。
| フェーズ | 変換 | 具体例 |
|---|---|---|
| 共同化(Socialization) | 暗黙知 → 暗黙知 | 職人の傍でひたすら見て盗む |
| 表出化(Externalization) | 暗黙知 → 形式知 | 熟練者が「コツ」を言語でまとめる |
| 結合化(Combination) | 形式知 → 形式知 | ドキュメント同士を組み合わせて体系化する |
| 内面化(Internalization) | 形式知 → 暗黙知 | マニュアルを読み込み「体で覚える」 |
この 4 フェーズは一度で終わらず、個人 → グループ → 組織 → 組織間へと広がりながら螺旋状に繰り返される。これが「知識創造のスパイラル」です。
知識は「持つ」ものではなく「創り続ける」もの。SECI はその運動の地図です。
場(Ba)——知が生まれる文脈
SECI が機能するには、知識変換が起きる場が必要だと野中は強調します。場とは物理的な空間に限らず、共有された文脈——会議室でも、廊下の立ち話でも、メーリングリストでも構わない。重要なのは、参加者が互いの暗黙知に触れられる状況が整っているかどうかです。
先に取り上げた花王の丸田芳郎の「大部屋」も、情報共有の仕組みであると同時に、SECI の共同化が自然と起きやすい「場」の設計として読み直せます。
LLM 時代のナレッジマネジメント
LLM(大規模言語モデル)の登場で、「知識を検索・結合・生成する」コストは劇的に下がりました。SECI の結合化(形式知 × 形式知)は、今や検索と RAG でほぼ自動化できます。ドキュメントを整備さえすれば、LLM が横断的に統合して答えを返してくれる。
しかしこれは、SECI の一段階を機械が代替できるようになった、という話にすぎません。共同化——人が人の傍で暗黙知を写し取るプロセス——は、LLM では再現できません。 テキストに落ちていない知識は、LLM にはそもそも届かないからです。
逆説的に、LLM 時代ほど「表出化」の価値が上がります。暗黙知を形式知に変換する能力——「経験を言語に変える力」——がなければ、LLM は何も読めない。ドキュメント化されていない知識は、組織の中で消えていくだけでなく、AI にも引き継げない資産になります。
野中が 1995 年に書いた問いは、形を変えて今も有効です。「あなたの組織の暗黙知は、誰かに伝わる形になっていますか?」
ポイント
- 知識には言語化できない暗黙知と言語化された形式知の 2 種類がある
- SECI モデルはその変換が螺旋状に繰り返されることで組織的な知識創造が起きると説明する
- LLM は結合化を加速するが、暗黙知を拾う共同化には届かない
- 結果として、暗黙知を形式知に変える「表出化」の能力こそが、LLM 時代に希少になる
出典
- Nonaka, I. & Takeuchi, H. (1995). The Knowledge-Creating Company. Oxford University Press.
- 野中郁次郎・竹内弘高(1996)『知識創造企業』東洋経済新報社