Forbes JAPAN に、ハーバード博士課程のシェイ・O・オモニジョ氏の議論を紹介した記事が載っています。要点は明快です。AI への過度な依存によって、知識労働者は重要なスキルを失いかねない。理由は身も蓋もなく、使わないスキルは衰えるからです。

この診断そのものは、もはや目新しくありません。筋肉と同じで、頭も使わなければ鈍る——それは直感的にも納得できます。本稿で掘り下げたいのは、診断のその先、オモニジョ氏が示す処方箋の側です。何が衰えるかではなく、衰えに抗って何を育てるか。その答えとして彼女が挙げるのが、分野をまたぐ「ルネサンス的マインドセット」です。

「使わないと衰える」の非対称性

まず、診断を一段だけ精密にしておきます。「使わないスキルは衰える」は正しいのですが、すべてのスキルが同じ速さで衰えるわけではありません。ここに非対称性があります。

AI に委ねやすいのは、手続き的なスキルです。定型的な文章を書く、コードの雛形を作る、資料を要約する。こうした「やり方が決まっている作業」は、AI に渡した瞬間から自分では使わなくなり、真っ先に錆びます。

一方で、AI に渡しにくく、したがって衰えにくいスキルもあります。何を問うべきかを決める、複数の分野の知識を結びつける、常識に反する仮説を立てる——これらは手続きに落ちておらず、AI にうまく指示することさえ難しい。だからこそ、意識して使い続けなければ、AI に囲まれた環境ではそもそも出番が来ないまま痩せていきます。危険なのは、衰える速さより「使う機会が奪われる」ことのほうです。

処方箋が向かうべきは、この後者の、代替されにくいが痩せやすい能力です。

なぜ「専門を深く」では足りないのか

素朴な対抗策は、「AI に負けないよう専門性を極限まで深める」ことに思えます。しかしオモニジョ氏の処方箋は、まっすぐ深さへ向かいません。むしろ分野をつなぐ広さを強調します。なぜでしょうか。

深いだけの専門性は、AI にとって最も模倣しやすい対象だからです。一つの領域に閉じた知識は、体系化され、文献化され、パターンが明確です。AI が得意とするのは、まさにこうした「境界のはっきりした領域内での高精度な処理」です。狭く深い井戸を掘れば掘るほど、その井戸は AI が最も速く追いつく形をしています。

これに対して、離れた分野を結びつける発想は、AI が最も苦手とするものです。生物学の概念を組織設計に持ち込む、歴史の教訓を技術戦略に読み替える——こうした跳躍は、既存のデータの中に「答え」として存在していません。異分野を横断する視点は、井戸と井戸の間の、まだ誰も掘っていない土地に立つことに似ています。専門性を守るとは、井戸を深くすることではなく、複数の井戸を持ち、その間を歩けることなのです。

人文知が効くのは「問いを立てる」領域

オモニジョ氏の処方箋の中核には、人文学的アプローチがあります。文学・歴史・哲学といった領域を、教養として脇に置くのではなく、思考の道具として使う姿勢です。

なぜ人文知なのか。理系的な問題解決が「与えられた問いを解く」ことに強いのに対し、人文知は「そもそも何を問うべきか」「この状況をどう解釈するか」を鍛えるからです。AI は与えられた問いに答えるのが得意ですが、問いを立てること、価値の優先順位を決めること、曖昧な状況に意味を与えることは不得手です。人文知はまさにその不得手な領域を耕します。

例を一つ。あるプロダクトを作るとき、「どう作るか」の大半は AI が肩代わりできます。しかし「これは誰のためのもので、何を犠牲にしていて、作るべきなのか」という問いは、技術の外にあります。倫理・歴史・人間理解——つまり人文知——なしには立てられません。AI に手続きを任せられる時代だからこそ、任せられない「問いを立てる部分」の重みが増します。人文知は、この重心が移った先で効いてきます。

思考プロセスを残すという実践

処方箋には、もう一つ具体的な実践が含まれます。思考プロセスの記録と共有です。結論だけでなく、そこに至る過程を書き残すこと。

これがなぜ効くのか。AI に作業を委ねると、手元に残るのは「結果」だけになりがちです。きれいな文章、動くコード、整った資料。しかしそこに至る試行錯誤——なぜこの案を捨て、なぜこの前提を疑い、どこで方針を変えたか——は、AI との対話の中に流れ去り、自分の中に沈殿しません。

思考プロセスを言語化して残すことは、その沈殿を意図的に作り出す行為です。過程を書くには、自分が何を考えたかを自分で把握していなければなりません。この「自分の思考を観察して言語化する」作業自体が、AI に委ねられない能力の訓練になります。しかも共有すれば、他者の思考プロセスと突き合わせられる。結果だけを交換する文化と、過程を交換する文化とでは、そこで育つ能力がまるで違います。

「完全に人間であり続ける」の意味

オモニジョ氏は、判断力・好奇心・創造性を磨き続け、完全に人間であり続けることを処方箋の締めくくりに置きます。やや詩的な表現ですが、これまでの議論を踏まえると具体的な意味が見えてきます。

「完全に人間であり続ける」とは、自分の仕事を AI に代替可能な部分だけに切り詰めない、ということです。効率を求めて手続き的な作業を AI に渡すのは合理的です。しかし、渡せる部分ばかりに自分を最適化していくと、残るのは AI の下請けのような働き方です。皮肉なことに、AI に合わせて自分を狭めるほど、自分は AI に置き換えやすくなります。

逆に、問いを立て、分野をつなぎ、意味を解釈し、価値を判断する——AI が苦手な領域にあえて重心を移すことが、代替されない自分を作ります。これは AI と競争して勝つ話ではありません。AI に任せられることが増えたぶん、任せられない人間的な領域へ、意識的に軸足を移すという話です。ルネサンス的マインドセットとは、その軸足の置き場所を指しています。

まとめ

  • 「使わないスキルは衰える」は正しいが、AI に代替されにくいスキルほど「使う機会そのものが奪われて痩せる」危険がある
  • 処方箋は専門を深めることではなく、AI が最も苦手とする「分野をまたぐ広さ」を育てること——狭く深い井戸ほど AI に追いつかれやすい
  • 人文知は「与えられた問いを解く」より「そもそも何を問うか・どう解釈するか」を鍛え、AI が不得手な領域を耕す
  • 思考プロセスを記録・共有することは、結果だけが残る環境で「自分の思考を言語化する」訓練になる
  • 「完全に人間であり続ける」とは、AI に代替できる部分に自分を切り詰めず、問い・接続・解釈・判断へ軸足を移すこと

出典